動物看護士の1日

カオハガン島ボランティア2008

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院長ブログ 雑事総論


当院は飼い主さんと共に考える獣医療を目指しております。

インドネシアの狂犬病事情とフロレス島の現地調査報告書

北海道獣医師会 川又 哲
岐阜県獣医師会 石黒利治

前書き

 このレポートは2008年11月に川又獣医師(函館市・川又犬猫病院、院長)と共に行いましたインドネシア狂犬病事情現地調査の報告書です。  日本獣医師会雑誌、2009年3月号に掲載されましたが、あれから一年がたちましたので日獣雑誌を見る機会のない一般の皆様にも公開し御批判を仰ぎたいと思います。  この報告書は川又獣医師が執筆した原稿に私が加筆、校正したものですが、内容、表現等報告書の全ての責任は私にあります。(石黒利治)

2010年2月20日

はじめに

 1997年(H9)、当時、北海道ではロシアから数多くの貿易船が来航し、それに乗って来た多数の犬が不法に沿岸に上陸し、地元にトラブルを引き起こしていた。所謂、「ロシア犬の不法上陸問題」である。犬は、夜な夜な放たれ、大半はまた船に戻るが、中には、船の離岸、帰国時にも戻らず、そのまま置き去りにされていた。それらの犬が埠頭周辺に群れをなし、地元の飼い犬と喧嘩をし、中には、通行人に咬みつく事件すら引き起こしていた。ちょうど同時期、6,000km離れたインドネシアのフロレス島では今日まで続く苦難が始まりつつあった。世に言う『フロレスの悲劇』がそれである。有史以来狂犬病の災禍から免れてきたフロレス島に、500km離れた島から狂犬病に罹患した犬が持ち込まれた。この恐るべき感染症は瞬く間に全島を侵食し、人への感染が始まっているとの情報がもたらされた。それは、このフロレス島を北海道に置き換えれば、まさに、北海道はフロレス島と同じシチュエーションにあることから、当時は、心寒からしめるものがあった。今回は、北海道獣医師会、岐阜県獣医師会からの支援を得て実際にフロレス島に赴き、現地調査を行った。以下はフロレス島に於ける狂犬病侵入の真相とその後の経緯、そしてインドネシアの狂犬病事情調査報告である。

1.インドネシアの地勢とフロレス島

 インドネシア共和国は、5,000平方キロにも及ぶ広い国土と、大小17,500もの島々で構成され、2億4千万人もの人口を有する世界第4位の巨大な多民族共和国である。主な島は、首都ジャカルタのあるジャワ島、スマトラ島、セレベスともいわれるスラウェシ島、マレーシア側からはボルネオと呼ばれるカリマンタン島、日本人にもリゾート地として有名なバリ島などが馴染み深い。
 目指すフロレス島は、さらに東の、行政区画としては東ヌサ・トゥンガラ州の中にある東西に細長い島である。ちなみに、東ヌサ・トゥンガラ州の州都は南のチモール島のクパンである。最近、このチモール島の東半分が独立運動の後、東チモールとしてインドネシアから独立したことでも有名である。

2.インドネシアの狂犬病

 フロレス島に入島する前に、首都ジャカルタで、インドネシア政府の畜産局から、インドネシア全体の狂犬病事情について、カンファレンスを受ける機会を得た。ここで得た知識は、その後のフロレスでの現地調査にたいへん役立った。お聞きしたのは、インドネシア畜産局の家畜衛生部局のセダルモノ次局長である。以下は、我々の質問と回答である。

質問1 インドネシア全体の狂犬病の汚染状況をお聞きしたい。

 33州のうち、スマトラ、スラウェシ、カリマンタンなど23州で狂犬病が発生。ジャワ島もバンドン市周辺は発生しているが、中部ジャワ、東ジャワに波及しないよう全力で阻止している。バリ島は世界的なリゾート地なのでここだけはなんとしても死守したい。
 インドネシア国内では、100万人に対して、110人が狂犬に咬まれる計算である。また、1,000件咬まれると、その内の7件が実際に狂犬病を発症し死亡している。この死亡者は、すべてがワクチンを接種したという例ばかりではなく、まったくワクチンを接種しない人、また、接種があまりにも遅かった人、さらには、祈祷、民間療法などの前時代的な方法に頼った人が含まれる。暴露後、速やかにワクチンを接種した人のほとんどは何事も無く助かっている。
 1997年にフロレスに狂犬病が侵入するまでは、東ヌサ・トゥンガラ州の全てが狂犬病に対して完全にフリーであった。また、それまではワクチンネーションはまったく行われていなかった。

質問2 インドネシアの狂犬病撲滅に対する戦略、または、国策のようなものがあればお聞きしたい。

 インドネシアでは、感染症は狂犬病だけではない。国策として、12の条件を定め、優先順位を決めて実際の施策を行っており、その内の4つの重要な条件、すなわち、感染の速度、死亡率の高さ、経済的なダメージの大きさ、人間に対する危険性の度合に照らし重要度が決められている。その結果、特に狂犬病、炭疽病、ブルセラ病、高病原性鳥インフルエンザ、それに豚コレラが国の重要な疾病として扱われている。
 国策としては、フロレスのような、狂犬病フリーの地域にパンデミックが起こった場合、まず、犬の数を減らすエラディケーション作戦をとり、その後で、残ったものに対して、ワクチネーションを行う方向で考えている。

質問3 ここ10年の、インドネシアにおける人と動物の狂犬病の発生数は?

 表1参照。年間約100名の方が死亡している。犬については、ここ数年は増加の傾向がある。98%が犬で、あとは、家畜も発症例はない。残る2%は飼い猿と猫である。野生動物やげっ歯類からの発症は確認されていない。コウモリの抗体は今の所、確認されてはいない。

 199719981999200020012002200320042005200620072008
Human      8410914713687 
Dogs90385848822765342534711693492645260(June)

出典:インドネシア畜産局資

質問4 インドネシアでは、この表を見る限りでは、現在も、狂犬病の発生は続いているが、その撲滅を阻んでいる要因はなにか。

 狂犬病防御のネックはなんと言ってもワクチンだ。ワクチンの生産は、畜産総局予算の中にある僅かな狂犬病対策費の中から支出されている。インドネシア全体で毎年250万頭分が必要であるが、40万頭分しか生産出来ていない。スラバヤにある施設は、まだまだ生産力に余力があるにも係わらず、予算が無い為に作ることができない。不足分は、地方財政の中から作ることになっているが、実際には、地方の予算で作られたためしはない。現在は、この僅かな40万頭のワクチンの3分の1をフロレスに向けているが、それでも焼け石に水の状態だ。
 今、経口ワクチンに期待している。もし、技術的にこれが完全に完成すれば、狂犬病撲滅の有効な手段として利用出来るかもしれない。しかし、少しでも欠陥があれば、ジャングルを抱えたこの国には、将来的に取り返しのつかないたいへんな問題が引き起こされる可能性もある。

質問5 飼い主がいる(コントロール下にある)飼い犬を想定した場合、インドネシアには何頭の犬が飼われているか?

 まだ、詳しい犬の飼育数のデータは持ち合わせていない。それは、この国の伝統的な犬の飼い方に原因がある。ほとんどの犬が放し飼いの為、カウントが出来ないという問題もある。しかし、国の人口が2007年で2億4千万人という事なので、その比率から、約1,200万頭(2007)と云う数値を基礎数として資料の算出を行っている。

質問6 インドネシアでは、飼い主のいる犬に対して、登録制度をしいているか?

 まだ、犬のオーナーに対しての強制された登録制度はない。しかし、1977年の、動物疾病の防止、コントロールと絶滅に関する政府規制No.15、また、1983年の政府規制No.22により、法律に基づいた強制的な規制制度として、狂犬病のワクチンプログラムを実施している。

質問7 前の質問と重複する部分もあるが、こんどは、飼い犬への狂犬病撲滅のための定期的なワクチン接種が全国規模で実施されることがあるか?

 インドネシアにおいての狂犬病ワクチン接種のポリシーは、全体の州の中で、犬、猫と猿に対して、むしろ、狂犬病に侵されつつある地域や、歴史的に狂犬病フリーの地域(Java州も含む)を優先的に選択し実施されるもので、全国的な、しかも、全頭的なワクチンプログラムといった認識のものではない。最も大切な事は、狂犬病フリーの地域に対して、狂犬病の侵入を許さないと云う事を最重要課題として努力をしている。全国的には、9月から10月に掛けて大量にワクチネーションが実施され、翌年の2月までに終了する。

質問8 飼い主がいる飼い犬のなん%が、狂犬病のワクチンを接種しているか?

 全国的には、飼い犬の狂犬病ワクチン接種の比率は37〜45%(2007)と認識している。

質問9 もし、飼い主のいる犬に対してワクチネーションを行う場合は、1回に対し、飼い主は幾ら払うか?

 全国レベルでの狂犬病の感染防止と撲滅プログラムにおいて、都市部の開業者がワクチン接種を行うケースでは、政府と州の畜産局が側面からサポートしている。具体的には、政府からのワクチンの供給は原則無料だ。それに使用する器具、資材などの支援もある。しかし、開業獣医師のコストについては使用するワクチンの種類(国産か、輸入か)、また、必要経費や技術料が開業者の裁量によって様々な段階があり、すべてを把握はしていない。また、開業獣医師が避妊手術をすると、政府からわずかではあるが助成金が出ており、インドネシア政府は奨励している。

質問10 この国では、誰が(どこの組織が)ワクチン接種プログラムの責任を持ち、そのスケジュールの企画をしているか?

 狂犬病のワクチンプログラムは、中央政府畜産局の指導の下、それぞれの地方の事情を勘案した上で、その地方自治体の長が責任を持って計画を建てている。

質問11 ちなみに日本では、政府の指導の下、ワクチンプログラムのすべては獣医師会に委託され、獣医師会は、開業獣医師を主体に全国レベルで狂犬病ワクチンを接種するが、貴国では、ペットを中心に診ている開業獣医師を狂犬病のワクチンプログラムの中に抱き込んで実施するような計画はあるか?

 前述したNo. 9の質問でも述べたように、開業獣医師に対しても、ワクチンプログラムに参加し、その活動を報告させるようにしている。しかし、国情もあり、どこにどれだけのワクチンをいつ使うかは、政府の強い意思が反映されなければならず、計画段階からの参加ではない。

質問12 もし、ヒトが狂犬病の疑いがある犬に咬まれた場合、免疫グロブリンを使用するか。また、暴露後のワクチンプログラムはWHOが推奨する方法(WHOプログラム:0,3,7,14,30日目にワクチン接種)に従って、ワクチネーションを行うか。

 我々は、畜産局である為、動物の取扱については、スタンダードな方法を提案し実施しているが、人間が狂犬病に咬まれた場合の取扱については、保健省に聞いて戴きたい。
(著者注;保健省で聞き及ぶところによると、人の暴露後のワクチン接種については、Zagleb方式という、アフリカのザグレブで確立された0(1cc),7(0.5cc),21(0.5cc)日目に、計4ドースのワクチンを打つ方法が国是として定められ、国民医療センターのすべては、この方法に従ってワクチネーションを行っている。免疫グロブリンについては、ルーチンな暴露後治療の中には、組み込まれておらず、本人の強い希望があれば、特別処置として免疫グロブリンが使用されている現状だ)

質問13 犬狂犬病が疑われる臨床症状で死亡した場合は、通常は、どのような検査がされるか?セーラー染色か、FATか?

 そのようなケースの場合は、地方自治体とDICの研究所で処理される。人を咬んだ犬は、14日間、地方自治体により観察され、その間に、犬が死んだ場合は、脳が摘出され、研究所に送られ、セーラーテストかFATで検査される。フィールドレベルにおいて、我々が、検査が必要となった場合は、いくつかのエリアで、常に、セーラーテストが出来る体制にある。

質問14 貴国と日本の関係については、次局長はどのようにお考えか?

 日本のJICAには、たいへんお世話になっている。現在、インドネシアでは、全国に家畜の検査所が7か所ある。そのうちの2か所、すなわち、北スマトラのメダンにあるもの、バンダルランプンにあるものはJICAの援助で建設された。さらに、現在、新たに8か所目を西ジャワ市のスバン作るプログラムが進行中である。また、これとは別に、グヌーシンルーにあるNVDAL(薬物検査所)もJICAの支援を得ている。私達の国にとっては、たいへん有り難く感謝している。

(著者注:畜産局衛生部での聞き取り調査で数々の矛盾点が浮かび上がった)

  • フロレス島での狂犬病発生時、島民人口150万に対して島内には60万頭以上のイヌの生息が報告されている。この割合をインドネシア全国に当てはめれば9千万頭以上の犬がいる事になる。フロレス島のイヌの密度が極めて高い事を考慮しても、飼い犬数、千二百万頭の数字にはあまり根拠がないよう思われる。
  • 畜産局はインドネシア国内で必要とされる狂犬病ワクチンは250万ドースと説明している。70パーセントの社会的免疫率を維持する為には840万ドースが必要であるはずである。
  • 一方都市部の市民の間で国内生産ワクチンに対する信頼度は低く市中の動物病院では輸入ワクチンが多く使われている。畜産局の言う飼い犬の免疫率の平均40パーセントを当てはめれば480万ドースのワクチンがインドネシア国内で使用されている事になり、国内生産量40万ドースを差し引いて440万ドースが輸入、使用されている計算となる。

我々はオフィシャルな政府間会議を担当する通訳を雇用しこの畜産局との面談に望んだ。又疑問と思われる回答に対しては何度も確認を行った。これらの数値の矛盾そのものがインドネシアの現状と今は理解するほか無いのであろうか。

3.フロレス島での現地調査

 フロレス島は、赤道直下の南緯8度で東西にサツマイモを細く長くしたような島である。人口約150万人。その70%はカトリックで、後は、プロテスタント、ヒンズー、イスラムを合わせて30%である。長さと幅は350キロと60キロで、その西端にはコモドドラゴンで有名なコモド諸島があり、東端には、狂犬病が始めて侵入したラランツカという港町がある。島のあちこちには火山が点在し、2,000メートルを超す活火山もある。それらを避けながら島をジグザグに横断する一本の交通路が、唯一、文明への足掛かりで、それを頼りに山岳集落が226も点在している。電気が普及している所帯は都市部を中心に約20%である。フロレス島では、ココナツ、バナナ、マンゴーなどのトロピカルフルーツ、コショウなどの香辛料の生産や沿岸漁業も盛んで、狂犬病さえなければ、さだめし、スパイスアイランドと呼べる犯罪の少ない豊かで平和な美しい島である。
 調査団は、ジャカルタからバリ島、更には名も知らぬもう一つの島を経由し、12時間を費やして、フロレスの東部に位置するマウメレという港町に入った。

(1)狂犬病の侵入地、ラランツカへの調査行

 狂犬病の侵入地、ラランツカは、マウメレからさらに、100km東に位置する小さな港町である。40℃近い気温の中、以前の火山噴火で吹き飛ばされた黒色の巨岩の間に火山灰を轢き詰めた悪路を走ること2時間であった。車窓に広がる風景は、ココナッツとバナナの林の中に、竹とバナナの皮で囲まれ、バリ牛と呼ばれる赤い牛、まだら模様のヤギを飼う民家が点在する。
 ラランツカ港は、20トンほどの集魚灯をつけた漁船が所狭しと並び、レストランを中心に3、4軒の店舗が並ぶ小さな漁港だ。道端には名も知れぬ極彩色の熱帯魚が発泡スチロールの上に無造作に並び売られている。魚種を見る限りでは沿岸漁業は豊かなようだ。
 帰り道、2時間あまりの道程の中で、夕闇の車のヘッドライトに現れては消える、約100頭を超える野犬の姿が印象的で、聞くところによると、島全体の全ての犬がこの様に放たれているとのことだ。

(2)フロレスの犬

 フロレスの住民にとって、犬の存在は、次の3点で大切な役目を果たしている。第1は、高性能なセキュリティシステムの担い手である。都市部周辺だけしか電気が行き渡っていないフロレスでは、夜は全島が漆黒の闇となる。そんな中で、何よりも頼りになるのが、家の周りに放たれ警戒してくれる犬達である。彼等は、音、光、臭い、に対しての優れたセンサーだ。フロレス人は、その意味では高性能なセキュリティシステムに守られて生活をしていると言っても過言ではない。第2が高級食材である。犬肉は、牛、豚、ニワトリよりも高級な食材である。誕生日、結婚式、また、11月の感謝祭、そしてクリスマスには、必ず、犬肉が供される。また、時には、売買の対象として市場に出回ることもあり、いざという時の食料と換金物資になる。第3が、ペットである。遊び道具の無い島の子供たちにとって、犬は、時には自然を学ぶ先輩であり兄弟となる。その為、狂犬病で亡くなる人の半数は15歳以下の子供である。

(3)Dr.Maria Geongとフロレス島畜産局

 ジャカルタ畜産局からの指令で、フロレス島の狂犬病防御の責任者であるDr.Maria Geongが、勤務地チモール島の州都クパンから、フロレスの畜産局まで出向き、我々調査団のフロレス訪問を歓迎してくれた。Dr.Maria Geongは、1997年の狂犬病侵入当初から、インドネシア政府の職員として、フロレス島の狂犬病撲滅に携り、現在も、対外的にはすべての責任者である。調査団は、フロレス島の畜産局で交歓を行った。まず、日本からは、@狂犬病の歴史的な背景、A現在の、狂犬病予防プログラムの現状、B北海道における「ロシア犬の不法上陸問題」について、簡単なレクチャーを行った。

(4)フロレスへの狂犬病侵入の顛末

 Dr.Maria Geong から、フロレスへの狂犬病侵入の顛末、その後の展開、現状、解決すべき問題点などをつぶさに聞いた。1997年の11月のある日、約500km離れたスラウェシ島のバトンから、小さなボートに乗せられて、フロレスの東端のラランツカに2匹の犬が連れ込まれた。うち1頭はすぐ死亡したが、他の1頭は周りの犬に咬み付いた。これがフロレスへの狂犬病侵入の発端である。フロレスでは、犬は、牛、豚、ニワトリと並んで、高級食材として扱われ、11月の感謝祭やクリスマスには、決まって、犬肉を食する習慣があることから、その商品として搬入されたと考えられている。1997年の時点では、人の発生がない為に、狂犬病の侵入は気付かれなかった。この年には合計6件の咬傷事故が発生している。1998年の2月になり、東端のラランツカ港の近くのサロタリ(Sarotari)という村で、初めて、一人、犠牲者が出た。時は既に遅し。狂犬病は、周辺の犬を汚染してしまっていた。この年だけで、681件の咬傷事故と10名の方が亡くなっている。

(5)46万6千頭の犬撲殺命令

 1998年に入ると、この島は、世界中の医療関係者の注目の的となり、世界保健機構を中心に救いの手が集まった。日本からも、JICAのスキームでフランス製のワクチンが無償贈与され、初動対応に役立てられている。1998年の時点で、医療や獣医療関係者が、島の政治的、宗教的なオピニオンリーダーの意見を取り入れ、彼等に対する配慮の下に下した結論は、東ヌサ・トゥンガラ州の全ての犬を撲殺すると云うものだった。周到な教育キャンペーンの後に、実施されたプログラムの結果は、フロレス全体で1977年に636,015頭いた犬の飼育数は、2003年には、169,035頭に減っている。差し引き466,980頭の犬が撲殺により処分されたとするオフイシャルな数値である。Dr.Maria Geongのお話しと他の文献の記述を総合すると、大半は飼い主に撲殺されて食べられ、または売られ、自分で殺せないものについては、警察、村の首長、軍人などの立会いの下に銃で射殺され捨てられたとされている。また、なぜ最初からワクチン接種による防御法を選択しなかったかとの疑問に関しては、この島の犬の大半がフリードックであり、さらに、ワクチンを安全に運ぶクーラー、シリンジ等の資材、ワクチンの接種技術者、電力そのものもこの島には存在しなかったのである。

(6)ついに最悪の事態

 ついに、最悪の事態がこのフロレスを襲った。それは、次々と犬が売られていった先に狂犬病が発生し、犠牲者が出始めたのである。1998年6月には、マウメレのあるSikka地区に、1999年には、ほぼ中央部のEndeに、同じ年に、西隣のNgada地区にも現れた。2004年には、西端のLabuanbajoにも犠牲者が出るに至り、ついには、フロレス全島が狂犬病の病魔に覆い尽くされた。
 表2には、1997年の狂犬病の発生当初から2008年6月までの人の死亡数と犬の咬傷事故数が載っている。これは、Dr.Maria Geongに提供戴いたものであるが、フロレスの狂犬病に関しては、世界的にも最新の貴重な情報ではなかろうか。
 この表からも、フロレスでは今日まで、発生は衰えることなく続いており、狂犬病のエピデミックを押さえ込むことが出来なかった姿が窺われる。また、犬の狂犬病による死亡数は載っておらず、咬傷事故数が載っている。これは明らかに、検査体制が整っておらず、どれほどの狂犬病犬がいるかは不明であることを示唆している。この12年間で、犬の咬傷事故数が17,835件は年間1,500件、1日では4件がなんらかの形で咬傷事故が起こっていることを示している。嘗て著者らは、日本の咬傷事故数を調査した中で、180万の札幌で55件、30万の函館で13件であった。押しなべて考えるに、異常なのはむしろ日本の数字である。その理由は、日本では狂犬病が存在しないとして、誰も小さな咬傷事故を行政に届け出たり、暴露後のワクチン接種をしないことから数値が上がってくることはないのである。改めて、狂犬病の清浄国であることの幸せを噛みしめたいものである。
 結局、この島は、2008年現在、17,835件の咬傷事故の結果、165名の尊い命が失われ、今も、これからも常に狂犬病の恐怖に慄きながら暮らす悲劇の島となったのである。

表2;フロレス島の狂犬病による経年の人の咬傷事故数と死亡数

 199719981999200020012002200320042005200620072008Total
Human
Death
01025611186721754165
Dog
Biting
66814972,4381,1871,1861,3921,2983,1011,8083,1481,09317,835

出展:Dr. Maria Geongのプレゼンテーション資料

4.世界に忘れ去られたフロレスと浮かび上がった問題点

 一時的に集まったフロレスに対する世界の関心も、2003年頃から次第に影を潜め、現在はそのすべてがインドネシア政府に委ねられ、孤立無援の状態だ。今回の調査の結果では、解決の難しい問題がDr.Maria Geongとの議論の中から浮かび上がってきた。それは、次のようなものである。

  • 資金が極端に足りない。地方財政の予算は、定期的にワクチネーションを行うには、あまりにも少なすぎる。
  • 犬の数が多すぎてカウントできない。犬の生息数が高く全てが放し飼いである為、その数は誰も正確には分からない。1件の家で8〜10頭犬を飼う住民も多い。時々、森から出てくる犬を狩り、食材に販売されたりすることもある。
  • 島から島への犬の移動は禁止されてはいるが、事実上守られていない。この国では、狂犬病犬が、自由に島を移動していると役人は危惧している。
  • 獣医師とパラメディカル(補助員)の数が足りなく、ベタリナリープログラムを遂行することが難しい。
  • ワクチネーションを実施する為の、住民との連携があまり上手くいっていない。ワクチンを接種しに行くと、犬を隠すこともある。自国生産のワクチンは住民には信用されてはおらず、「ワクチンを接種すると狂犬病になる」などの“うわさ”もあるらしい (現地人から直接、著者らが聞いた話)。
  • ベテリナリイプログラムを実施するには、クールボックスやシリンジなどの資材、技術者が足りなく、ワクチンをクールに保つ為の電力すらない。
  • 住民の大半(60%)は、文字を読めない。その為、自治体の施策は、“うわさ”として村落に流布され、結果として、政府に対する不信感の種となり増幅する。
  • 電気がないから、通信手段が何も無い。A地点からワクチンネーションを予定していたB地点に、天候や、様々な理由で移動出来ないことがあっても、B地点に、電気が無い為、その事を連絡する手段がない。次の日、改めてB地点に行くと、住民は怒っていて二度と犬を連れて集まる事はしなくなる。
  • 住民は殆どお金を持っていない。国から支給されるワクチンは、原則無料である。しかし、人件費や設備費が掛かり地方財政への圧迫が激しく、やむなく、日本円で10円程度のワクチン代を村民に要求すると、マンゴーや野菜を差し出す者がいる。

 この島では、通信手段が完備されていない為、未だに、“祈祷”や“うわさ”が幅を利かせている。Dr.Maria Geongの話では、一時期、ストリキニーネを使用して犬を処分したが住民の事故を心配し中止した。その時、住民の報復を恐れ、役人が頭から黒い布を被って作業した為、それが“ニンジャ”がいるとの“うわさ”として伝えられ、それが、自分達の平和をねたみ、脅かすものの化身となって住民の間に、今でも“いた”、“見た”として“うわさ”が生きているとのことである。

おわりに

 熱帯直下に横たわる350kmほどのフロレス島で、狂犬病の実態調査を行った。そこには日本のように、登録制度と年1回のワクチネーションが義務付けられ、全ての犬が室内飼育か係留して飼う環境とはあまりにも違う異次元の世界があった。2007年現在、この島には、20万3千頭の犬が放れたまま、ヤシ林の中にフリーな状態で生存している。全島的なワクチネーションプログラムがある訳でもなく、60%が文盲の住民と行政との信頼関係も薄く、気温40度、20%の電力普及率の中で、今も続く狂犬病の脅威に悪戦苦闘している彼等を、私達は“反面教師”と呼ぶべきではない。むしろ、彼等は世界にも類を見ない最悪の条件と環境の中で、最大限の努力をし、発生数を現在の状態まで低く抑えている老練なファイターである。今後の成果に期待すると共に、この国の狂犬病の発生は、インドネシアやフロレスだけの問題ではなく、広く国際的な支援の下に、全地球的規模で対策を考えるべき時であると痛感した。改めて、狂犬病予防注射の重要性と、清浄な大地で暮らす私達日本人の幸せを噛みしめたい。
 稿を終えるに当り、温かいご支援を戴いた岐阜県獣医師会、北海道獣医師会、北獣金川弘司先生、JICAの畜産アドバイサー下平乙夫先生、インドネシア保健省ズーノーシス課、農業省畜産局、フロレス島畜産局、東ヌサ・トゥンガラ州の狂犬病対策責任者・Dr.Maria Geong、JICA薬品検査所・NVDAL、そして特にフロレス島調査に同行・通訳をしていただいたNVDAL職員・Idaさんに、この場を借りて心から感謝の意を表したい。

追記
 この原稿を日獣事務局に送る2月上旬現在、インドネシア政府が狂犬病の進入を死守すると述べていたバリ島で4名の狂犬病の犠牲者が発生している。インドネシア政府はバリ島の全ての犬に狂犬病ワクチンを接種することで対策を取り始めているが、フロレス島のレポートで述べた通り、この国には犬を繋いで飼う習慣は無い。我々の想像を絶する苦難が予想される。日本を含めた広く国際社会の支援が望まれるところである。

参考資料

  • Caecilia Windiyaningsih,Henry Wilde,Thomas Suroso.,2004: The Rabies Epidemic on Flores Island,Indonesia(1998-2003).,J Med Assoc.Thai.,Vol.87,No.11,1389-1393
  • Henry Wilde.,2000: Flores island rabies outbreak,Indonesia(December 3-10,2000).,Clinical Infectious Diseases,2003:37:96-100
  • Henry Wilde.,2007: Rabies 2007:perspective from Asia.,Asian Biomedicine Vol.1,No.4,December 2007;345-357
  • Robert E.Dedmon.,2008:Maddog and Englishmen., Asian Biomedicine Vol.2,No.1,Feb. 2008;27-34
  • Veera Tepsumethanon.,2005:Six Criteria for Rabies Diagnosis in Living Dog.,J Med.Assoc.Thai.,Vol.88,No.3,2005,419-422
  • 青木恵理子.,2005: Rabies,Ninja and Vactination:Embodied imagination and modern system in Flores,Indonesia.,国際社会文化研究所紀要、第7号、269-281
  • 森山 浩光., 2006: インドネシアの狂犬病.,日本獣医師会雑誌、59,709-714 
  • Policy Program for Rabies Eradication:インドネシア農務省畜産局資料 Maria Geong:Rabies Situation and Control in Flores and Lembata.,インドネシア、東ヌサ・トゥンガラ州、農務省畜産局資料

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