2009-03-05 18:14:11
テーマ:動物病院の四季

山の緑がいよいよ濃くなると、新茶摘みが始まる。働けるものはすべて、険しい山肌に開かれた茶畑に出払い、猫の手も借りたい季節だ。
毎年この時期、山間の集落を回って狂犬病集合注射を行っている。
獣医師と問診担当の動物看護師、それに役場職員二人の計四人が一チームとなって、各集落を回る。住民には公民館などに飼い犬を連れてきてもらい予防注射をする。
山間地の村では、一日に十から十五カ所も回ることもある。
効率優先の時代とは無縁の事業がここにある。
私はいつのころからか、過疎地で行われる、この年中行事を楽しみにするようになった。
村民のほとんどが、例外なく「先生 ご苦労さんです。ありがとう」と笑顔で言ってくれる。私もスタッフも、負けじと声をかけ笑顔となる。笑顔になると心も軽くなる。私の注射も優しくなる。
各自の自己主張はさて置き「法律やしきたりはまず守る」という規範がこの地域に生きている。
だから、谷を隔てた向こうの集落から、婆様が息を切らせ、フィラリア症でもう余命いくばくもない老犬を引きずってくる。
「婆ちゃん、こいつ大分具合悪いから、動物病院で診てもらってから注射したら?」。
私は耳の遠くなった婆様を大声で説得する。
「法律なんだろ 注射打ってくろ」
「婆チャン 折角ここまで長生きした犬だ。注射で弱わらしちゃ申し訳ねー」
すったもんだの挙句、一緒に来た近所のおばちゃんが助け舟を出してくれた。
軽トラで近くの動物病院まで連れて行ってくれることになり、一件落着。
この日本人のきまじめさ、ほかへの気遣いが世界でも奇跡といわれる「日本列島からの狂犬病の駆逐」を成し遂げた。
昭和三十一年を最後に、わが国では犬の狂犬病の発生は認められていない。
腰をかがめ、足を引きずりながら、対岸の集落に帰ってゆく婆様の背中が汗でぬれている。
婆様の汗と笑顔、そしてあの頑固さに元気付けられる。山は新緑の眩しい初夏であった。